対談 トモ・コスガ × 金子隆一
Photobook Symposium vol.3 :金子隆一
RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎
Photo:twelvebooks
Support:Masahisa Fukase Archives, MACK
Text:Yumiko Kobayashi
写真:twelvebooks
協力:深瀬昌久アーカイブス、MACK
構成:小林祐美子
今年MACKから復刊され、大きな話題となった深瀬昌久の『鴉 / RAVENS』。深瀬昌久アーカイブスのトモ・コスガと、同時代的に深瀬昌久の活動を見てきた写真史家・金子隆一の二人が、長い間語られてこなかった本作について解き明かす。復刊のキーとなった深瀬昌久アーカイブスや『鴉』とはどのようなものだったのか。そして深瀬が作品全体とその生涯を通じて追い求めたものに至るまで、深瀬と『鴉』を奥深く考察する。
*2017年9月に原宿・VACANTにて行われたトークイベント「フォトブック・シンポジウム Vol.3: 金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」から抜粋して掲載しています。
金子隆一(以下“RK”)『鴉』は蒼穹舎という、1980年代に大田通貴さんが始めた出版社が一番最初に出した写真集でした。その後一度アメリカで復刻が出て、2008年には1,000部という限られた部数でラット・ホール・ギャラリーより復刊されたのち、幻の写真集と呼べる最右翼に位置するものでした。加えて深瀬さんが1992年に不慮の事故によって写真家として再起不能になり、その後お亡くなりになったことによって、しばらく深瀬昌久という写真家の活動自体が表に出てこない状況が続いていた。その中でトモ・コスガさんが深瀬昌久アーカイブスを立ち上げたことによって、深瀬昌久がもう一度アプローチできる存在として、近年浮かび上がってきています。その結果のひとつとして、この復刻された『鴉』がある。そこでまず、深瀬昌久アーカイブスの始まりと現状についてお話しいただけますでしょうか。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント
「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
トモ・コスガ(以下“TK”)我々が深瀬昌久アーカイブスという名前で本格的に活動を始めたのは2014年からです。深瀬が事故に遭った1992年から2012年にかけては、深瀬昌久アーカイブスの前身団体として深瀬昌久エステートという組織がありましたが、対外的な出版や展示の活動は少なかった。ですから、それらはまず我々の目標の大前提となりましたし、日本だけでなく世界中に広めていくことも大事ですし、ゆくゆくは次世代に深瀬作品が語り継がれていくことを目指しています。今回MACKからの『鴉』復刊はその第一歩だと思っています。
『鴉』の復刊の1年前にMACKと深瀬昌久アーカイブスの最初のコラボレーションとして刊行された『HIBI』
TK 『鴉』は86年に蒼穹舎より刊行されてから世界中で評価をいただいていますが、その一方では長く絶版が続き、本格的な展示もない時期が長らく続いていたことから、その中身について議論される機会はほとんどありませんでした。ですから今回のように再版されることを機に、深瀬の作品をいま一度考えて頂いたり、議論していただけたら嬉しいです。
我々の活動としては主に3つ。「作品のデータベース化」を完成させ、「展覧会や出版の企画立案」をし、最終的には「美術館への収蔵」をすること。それらをどれだけスピードを伴って積極的に進めていけるかを重要視しています。というのも、我々の手元にプリントやネガが受け渡された2014年の段階で、既に大方のネガや資料が風化している状況でした。とりわけネガは湿度や温度などの保管状態が適切でない環境に長らく置かれていたのか、加水分解を始めているものも多く見られ、酷いものでは絵が消えかかっていたり、あるいはカビが生えていたり。そうしたものが何万点もあることを知った時点で、我々の活動に残された猶予が実際にはあまりないことが分かったんです。
今年、南仏アルル国際写真祭で開催された深瀬の回顧展「THE INCURABLE EGOIST」より『鴉』展示風景
TK 海外にも広く伝えていこうと、2015年に南フランスのアルル国際写真祭において、テートモダンのキュレーター、サイモン・ベーカー氏がキュレーションした「Another Language」という展示に深瀬作品も出展させて頂きました。
そして今年の7月には南仏・アルル国際写真祭でようやく深瀬の大規模な回顧展が実現し、深瀬自身が生前に手がけたヴィンテージプリントを中心に約290点を展示しました。本展では5つの部屋を使わせてもらい、13のシリーズ群を『遊戯』『家族』『孤独』『私景』という4つの大テーマに区分して展示しました。深瀬が自ら手がけた展示としては最後となった92年の「私景’92」(ニコンサロン銀座にて開催)以降は公開されることのなかった『ベロベロ」や『遊戯』なども一部公開することができ、多くの方にフレッシュに堪能していただけたのではないかと思います。
2015年、Diesel Art Galleryで開催された深瀬の展覧会「救いようのないエゴイスト」会場風景
photo by Wataru Kitao
RK 2015年に渋谷・DIESEL ART GALLERYで行われた深瀬昌久の展示「救いようのないエゴイスト」はとてもインパクトがありました。二十数年間ぶりに深瀬昌久のプリントを見る機会が作られたことと、もう一つは、私も含め深瀬昌久を同時代的に知っている人ではない人の視点で作られた展覧会だったという点です。非常に新鮮な、深瀬昌久の新しい評価を作っていくきっかけになった展示だったと思います。
TK ありがとうございます。本展のタイトルに起用した「救いようのないエゴイスト」は、当時の深瀬の妻が1973年に『カメラ毎日創刊20年記念別冊 写真家100人 顔と作品』に寄稿した原稿のタイトルです。当時、深瀬は妻をよく撮影していたのですが、彼女はそんな深瀬について「彼の写した私は、まごうことない彼自身でしかなかった」と記しており、故に彼は「救いようのないエゴイスト」であると結論づけています。これは深瀬を象徴する言葉であると判断し、展示タイトルとして採用しました。この展示では『屠』『烏:夢遊飛行』『家族』『私景』『ブクブク』『猫』といったシリーズ群を展示させていただきました。
この展示を開催すると、観て頂いた方々からこんな質問を頂いたんです。「どうして『鴉』の作品が写真集に収録されたものではなく、しかもなぜカラー写真なんだ?こんなのは見たことがない」と。これには理由があります。本作は『カメラ毎日』1983年10月号に載った『烏:夢遊飛行』という作品で、私が2000年頃に初めて出会った深瀬の作品なんです。当時、美術系の大学に通っていた私は学校の図書館で写真関連の本を読みあさっているうち、深瀬の写真集にたどり着きました。しかし当時既に『鴉』には高値がつけられていて学生の私には高嶺の花になっていた。それでも諦められなかったので昔の写真雑誌を探し始めたら、本作のようなカラー作品もあれば、フォト・モンタージュを多用した実験的な作品など、実に魅力的なのに雑誌掲載で留まってしまった深瀬の作品にたくさん出会うことができたんです。
深瀬昌久『烏:夢遊飛行』(1980)© Masahisa Fukase Archives
RK あまり知られていないことですが、『鴉』は実は最初から、カラーとモノクロの両方で発表されていました。その後、ニコンサロンでの4度にわたる展示、写真集の編集といういくつかのステップを経て徐々に変化していった作品です。深瀬昌久といえば誰もが『鴉』という時代にあって、『鴉』がカラーで展示されたことはインパクトがあった理由のひとつだったと思います。
TK 私は個人的に当時の雑誌を買い集めて深瀬昌久のスクラップブックを作ることをこれまで15年近く続けてきたのですが、その初期衝動を与えてくれた本作を人々に見せることができれば、本人不在のなかでも次の世代に深瀬の作品を伝えていくことが叶うのではないかと。だから、誰もが知るモノクロの『鴉』ではなくカラーのそれを展示しようと決めました。
また、深瀬が手がけたプリントにおいて『鴉』はとりわけ、技巧の面においても手間暇のかかった素晴らしいものでしたから、本人亡きいま再現するのは大変難しく、その点において万が一にも作品の魅力を汚したくなかったことも理由のひとつでした。しかし深瀬の場合、カラー写真は雑誌寄稿のために用いるのが主でした。当時、カラー写真の寄稿はポジフィルムを出版社に渡す手法でしたから、カラーのプリントというのはほぼ存在しないんです。かつポジフィルムは退色劣化が激しい。それをどう残すかというのは目下急務といえます。
深瀬昌久『鴉』(MACK)
TK 『鴉』は、1976年4月から妻との離別をきっかけに出た北海道への旅の途上で出会った人やものを写した作品です。これを展示にしようとなった際、深瀬はそのタイトルを「遁北記」(とんぽくき)にしようと考えていたらしいのですが、当時「カメラ毎日」編集者を務めた山岸章二さんが「それでは薬の頓服(とんぷく)みたいだ、写真にはカラスが多いから烏でいいんじゃないか」と提案したそうです。旅ガラスという言葉もあるし、と納得した深瀬は「烏」というタイトルを採用しました。その後82年までが本格的に撮った時期で、86年に写真集として出版されました。
RK 雑誌の連載時は「烏」で写真集は「鴉」。タイトルが違っていたというのも面白い。文字が違うということは、つまり意味が違うということです。
TK まさにその通りです。「鴉」という漢字が写真集に使われていることは皆さんご承知の通りですが、一方で雑誌と展示では「烏」と題されていました。それについて深瀬は『カメラ毎日』にこう記しています。“烏”という字は象形文字で、カラスは真っ黒で目が見えないから「鳥」の目の位置に当たる一本の線を抜いて「烏」とした。一方の「鴉」は形声で、「牙」(ガ)の音がカラスのカーという鳴き声を表す文字であると。1976年の一回目の展示でどちらにするかを相当悩んだそうですが、形声より象形を選んで「烏」にしたと書いています。つまり当初は、カラスの形態にフォーカスを当てていたということでしょうね。
深瀬昌久『鴉』(MACK)
RK 動物のカラスが必ず写っているわけではなく、お年寄りの女性のヌードであったり、女学生の毛がわっと風でなびいている写真だったり、カラスが持っている不吉な、マイナス的なイメージを象徴して「烏」といっていたんだととらえられます。
TK 英題にしても、なぜ日本人には馴染みのある「CROW」ではなく「RAVEN」としたのか?という疑問が浮かび、言葉の意味を調べました。「CROW」は体が小さく都会に住みやすいハシブトカラスやハシボソカラスのことで、日本では古来から「八咫烏」信仰に見られるような吉兆を示す鳥ですが、対する「RAVEN」は大型のワタリガラスを指し、これは不吉の兆しを持つ鳥として海外のさまざまな神話に登場します。さらにエドガー・アラン・ポーによる有名な詩『大鴉』の原題が「RAVEN」なんですね。
RK ちょうど70年代に翻訳が出て、幻想文学が好きな人はみんな読んでいました。
TK ある嵐の夜に、恋人を亡くした男性のもとに言葉をしゃべる鴉が突然現れる。男性が鴉に「お前は何者なんだ」「自分の失った恋人をお前は返してくれるのか」などと問うのですが、鴉は「Never more(二度とない)」とだけ返すという残酷な詩です。恋人を失う過程で鴉が出てくるという構造は、当時の深瀬の状況、そして深瀬の二冊目の写真集『洋子』にも繋がりが見いだせます。深瀬と当時の妻は1963年に出会って翌年には結婚をしますが、度重なる衝突を経て深瀬は二度の家出をしたのち、ある日ふらっと舞い戻る。しかしそれは妻を一年間撮るためであり、76年には離婚をしてしまいます。この写真群が78年に写真集『洋子』として出版されました。『鴉』はその次に出版されています。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント
「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
RK 『洋子』は朝日ソノラマ写真選書というシリーズの中の一冊として出版されました。編集したのは当時朝日ソノラマにいた長谷川明さんで、今回復刻になった『鴉』が蒼穹舎から出た際に編集した人でもあります。この二冊を同じ人が編集しているということは注目しておくべきことです。朝日ソノラマ写真選書は名作写真集を復刻するというコンセプトで始まったシリーズで、初めてオリジナルを作ったのが深瀬昌久の『洋子』と、森山大道の『続・ニッポン劇場写真帖』、そして荒木経惟の『我が愛陽子』の3冊でした。長谷川明が圧倒的に評価していた3人であり、本来写真集になるべきなのにまだなっていない作品、という意識だったようです。この3冊が刊行された1978年は、「山岸天皇」とまで言われた山岸章二が『カメラ毎日』をやめた年でもあります。『遊戯』ではない深瀬像、『狩人』ではない森山像、『センチメンタルな旅』ではない荒木像が作られ始めたといってよいと思います。
TK 時系列から分かることとして興味深いのは、『洋子』が出版される前、深瀬は妻の故郷である金沢を訪れ、木々から飛び立つ数多のカラスを撮影していたことです。その時の写真は『鴉』に収録されるだけでなく、実は『洋子』のラストに配置されているんですね。まるで『大鴉』に登場した鴉が男の前から飛び去るシーンを実際に描いたかのようにも見える、実に象徴的な編集ともいえます。つまり深瀬の『鴉』を考えるうえで前作『洋子』は欠かせない作品なんです。
「鴉, 金沢, 1978」。妻の故郷・金沢を訪れた際に撮影されたうちの一枚。写真集の『洋子』と『鴉』の両方に収録されており、
とりわけ『洋子』では最後の一枚として印象的な使われ方をしている。
RK 後に『鴉』の中に収められる印象的な写真が、このときすでに撮られているんですよね。長谷川明も『鴉』を作らないと『洋子』が成立しないと思っていたのかもしれません。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント
「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
TK ここまでの話でも紐解いてきたように、『鴉』や深瀬昌久を考えるとき、妻を失った寂寥をひとつのテーマとしてとらえがちですが、その一方で正反対の側面、すなわちこの世に生まれた生命の素晴らしさも顧みられると考えています。
深瀬は76年10月ニコンサロン開催の個展「烏」で第2回伊奈信男賞を受賞するのですが、この表彰式で伊奈さんは本作について「人間性にあふれ、天に突き刺さるような迫力のあるものだった」と評しました。これは深瀬の作品群を端的にいい表した評価だと思います。たしかに写真をきっかけにさまざまな離別を体験してきた深瀬はその生涯において満たされることがなかったからこそ、晩年に至るまで、実に生き生きとした作品を手がけることができたのではないかと思います。そこから見いだせるのは「遊戯」というもうひとつのテーマです。
深瀬の代表作をこれまで刊行された本でとらえると、11冊になります。これらを制作年代で振り分けてみると、60年代は新宿のヒッピーカルチャーの当事者たちや自身の妻が明るく戯れる姿を集めた『遊戯』と『洋子』、70~80年代にかけては自身の飼い猫サスケにまつわる本が三冊に『鴉』、そして自身の家族と父親を題材にした『家族』『父の記憶』。そして90年代にセルフポートレイトを主題にした『ブクブク』『ヒビ』などが制作される。ここから分かるのは、実に見事なほど題材が時代毎に分かれていること。60年代が「戯れ」、70~80年代が「身近な存在を映し鏡とした自己」、そして90年代が「自分自身を客体としてとらえた自己」なんですね。これらは分断されることなく、サークル状に繋がっていると私は考えていて、つまり深瀬が晩年に臨んだ自己との対峙とは、60年代において妻に見た「戯れ」だったのでないかと。それではこの「戯れ」とは一体なんなのか?
一冊目の『遊戯』は英題を「ホモ・ルーデンス」としていますが、これをなぜもっとわかりやすい「プレイ」にしなかったのかが気になって調べたところ、「ホモ・ルーデンス」とは、オランダの文化史家であるヨハン・ホイジンガが1938年に発表した著作のタイトルであることが分かりました。これは「遊戯する人」という造語です。「遊びは文化よりも古く、人間が生まれる前から持ち合わせているもの。闘争、競技、あるいは詩、音楽、ダンス、芸術。ありあまる生命力の過剰を放出するものが遊戯である。遊戯が持つ“面白さ”は、いかなる分析や論理的解釈を受けつけない」と。つまり深瀬はホイジンガが提唱した「ホモ・ルーデンス」を生涯かけて写真の内に表して見せたのではないかと、私は考えるようになっていきました。この方向性は深瀬の作品を、ひいては深瀬という作家の生涯を、単に自分自身を見つめ続けた孤独な男の物語に留めることなく、もっともっと壮大で生き生きとした題材の下に理解できると思うのです。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント
「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
RK この『遊戯』が出た頃、深瀬さんの作品が「季刊写真映像」第2号で特集されるのですが(1969年、写真評論社刊)、そのときはカラー写真が掲載されていました。その特集が、後の『洋子』に繋がっていく気がします。「写真映像」では少し赤い色が付いていて、『アサヒカメラ』で連載された「烏」ともリンクし、深瀬のカラー写真のルーツだと思います。
TK 70~80年代には撮影対象を動物や家族へと移しながら、徐々に自分自身へと肉薄していきます。自身の飼い猫を撮るにしても「猫の瞳に自分を映した自写像である」と表現していましたし、「カメラ毎日」での『烏』連載においても、制作のきっかけとなった76年の北海道への旅を綴った手記の中で「カメラを持った烏になって、黒い友達を追って遊んでいた」と綴っている。『家族』は、祖父の代から続いた写真館を舞台に、自身の家族に赤の他人である女性たちを混ぜながら虚構の家族写真を20年近くかけて撮ったものです。もちろんその中では深瀬自身も登場してきます。そして『父の記憶』では、父親を基軸にしながら深瀬家の歴史を写真で辿り、ついには父親が亡くなるまでを撮り切った。この後半では、父親が焼かれてお骨になった姿も収録されていますが、この頭蓋骨を深瀬はまるで対面するように正面からアップで撮っています。これは撮影行為を鏡に置き換えた自己認識とも考えられ、セルフポートレートのひとつであると思います。
そして90年代に入ると、ストレートに自分自身を写していく。『ブクブク』では還暦間近の老体を恥ずかしがる様子もなく、ただただ楽しそうに水面を浮遊しながら自分自身を写しています。この姿に私は、彼が60年代に夢中でシャッターを切った人物、つまり妻・洋子の姿が重なって見えました。それは「戯れ」とも言い換えられるでしょう。深瀬は30年の月日をかけて妻に見た「戯れ」を様々な対象を通じて見いだしながら、ついには晩年それを自身のうちに見つけたのではないでしょうか。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント
「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
RK 『父の記憶』と『家族』はIPCという出版社から1991年に出ているのですが、このIPCはとにかく売れない写真集ばかりを作っていた出版社でした。
TK 『家族』はいわゆるタブロイド判よりも大きい本で、当時の定価で1万2千円もしました。これほど変わった本にそれだけのお金を出して買った人たちがいたことが驚きです(笑)。
RK まさに80年代のバブルであるがゆえに出された2冊です。IPCと蒼穹舎は80年代から90年代にかけての、ある種の「写真集馬鹿」といえます(笑)。10人が見て10人が売れないと思うものを作るんですから。けれど深瀬昌久の表現は、そういうマイナーな中でやっている人間にとってはすごく魅力的で、心中してもいいくらいのエネルギーを与える、そういう写真家なんです。『父の記憶』と『家族』は、方向性はまったく違うけれども、いわゆるファミリーをテーマにしてリアルタイムで出された唯一のもので、とても貴重であるし重要な写真集だと思います。
TK 私もその、心中してもいいと思ってしまったうちの一人だと思います(笑)。
2017年9月10日に原宿・VACANTで行われたトークイベント
「フォトブック・シンポジウム Vol.3:金子隆一 | RAVENS / 鴉 – 鴉の秘密、アーカイブスの謎」より
TK これは深瀬が92年に自身の事務所のベランダから撮影したものです。サービス版ほどのサイズのものが何百枚と遺されていたもので、そのすべてに写真の上からドローイングが施されていました。量からして、当時は日課のように繰り返していたのではないかと思います。
「自分を入れて撮ることにも飽きたので、いまは烏を撮っている。1000ミリの望遠レンズで、毎日午後4時半から5時半まで、巣に帰る烏を狙っている」とアパチャー誌の92年秋号に書いています。なにもカラスだけでなく、鳩や気球、ヘリコプターなど、窓から見えたものすべてを撮っていたことから分かるのは、とにかくなんでもいいから撮らずにはいられないという執念ですね。ぐちゃぐちゃっと自暴自棄なドローイングも見受けられますが、基本的にはどこか可愛らしいというか。
RK そうですね。遊んでいるという感覚がとても伝わってきます。サービス版くらいのサイズもいい感じですよね。津軽の写真家小島一郎という写真家が自分の作品を手札くらいの大きさにプルーフ焼きをして、それをポケットに入れて友達に見せていたことを思い出しました。この800枚を深瀬さんがポケットに入れて、喫茶店でぐちゃぐちゃっと書いているような面白さを感じます。
深瀬昌久『Ravens 92』より © Masahisa Fukase Archives
TK この作品を撮り出す数カ月前にあたる92年の2月に、銀座のニコンサロンで深瀬が自ら手がけた展示としては最後となる個展「私景’92」を開催しました。それまではプリントをしっかりと額装して見せる展示をこなしてきたにも拘わらず、深瀬が最後に選んだ展示手法とは、壁にピンでプリントをダイレクトに貼るというものでした。4つのシリーズで450枚ほどの写真を展示したのですが、その大半に深瀬自身が映り込んでいたわけですから、なんとも異様な展示だったことでしょう。
RK 80年代末から90年代にかけては、日本でも写真は綺麗に焼き付けたものをオーバーマットで挟んで額に入れて白い壁の美術館に展示するという方法が、ようやくスタンダードになってきた時代です。70年代においては、若い写真家たちがよくこういう風に写真を壁にピンで留めていました。
深瀬昌久写真展「私景’92」展示風景。ニコンサロン銀座にて1992年2月25日〜3月2日まで開催された。
TK 興味深い点として、この展示では『ブクブク』以外の3シリーズをモノクロプリントの上に着色していることです。どうしてそうしたのか、気になりますよね。私はこんな記述を見つけました。『日本カメラ』1985年9月号で「作品撮りをモノクロでするのはカラープリントがなかなか自分でうまくコントロールできないから」と綴っており、さらには「天邪鬼のぼくとしての手造りの味のような質を要求した」としている。このときはポラロイドの8×10のフィルムを印画紙代わりにしたカラーの引き延ばしをひらめいたことで腑に落ちたようですが、それから数年が経って、最終的に深瀬はモノクロプリントに筆で着色したものを「自分なりのカラープリント」としたのではないかと。
RK なるほどね。そうかもしれません。
TK この展示の4カ月後に深瀬は泥酔した挙げ句、階段から転げ落ち、その後遺症によって以後二十年間、病院生活をやむなく送ることになりました。
深瀬昌久写真展「烏」展示風景。ニコンサロン銀座にて1976年10月5日〜10日まで開催された。
TK 話を「鴉」に戻しましょう。鴉をテーマにした展示は76年から82にかけて4度、ニコンサロン銀座を舞台に「烏」「鴉 1979」「烏、東京篇、1981」「烏・終章」といった題名で発表されました。初回は北海道への逃避行の旅を、そして第2回では妻の故郷にあたる金沢での写真が混ざり込んでいます。ここまでは妻との離別が大きな要因になっていることがこれまでの経緯でご理解頂けたと思いますが、興味深いのは81年の「烏、東京篇、1981」です。
RK これは当時実際に見て、ものすごく印象深い展示でした。
TK よくよく眺めていると気づくのですが、肝心のカラスがあまり登場しなくなり、その代わりに不思議なアングルで切り取られたスナップ写真が割合を占めている。アングルはふわっと浮遊していて、かつ平衡感覚が人とは異なるような。そんな印象を受けながら考えていて、ある日気づいたんです。これは深瀬自身がカラスの眼になって写したものなんじゃないかと。フレームに収まらないクローズアップされた一場面というのは、まさしくカラスが宙を舞う最中に見ているような視点のように感じられませんか?
深瀬昌久写真展「烏、東京篇、1981」展示風景。ニコンサロン銀座にて1981年6月30日〜7月5日まで開催された。
RK 何でこれが「鴉」なんだ?という疑問が浮かぶのですが、見終わった時には「そうかこれが『鴉』なんだ!」と思わせる展示で、とても印象深かった。深瀬さんにとってはカラスも人間もゴミも一緒になってしまったんですね。それが東京だから撮れたということもあると思います。
深瀬昌久写真展「烏、東京篇、1981」展示風景。
TK たしかに東京は大事な要素だったと思います。本シリーズの撮影場所を振り返っても興味深い。一回目が北海道で、日本の最北ですよね。それが二回目では金沢に南下し、3回目で自身のねぐらである東京に帰ってくる。初めこそ非日常のなかでカラスを追っていたのに、自分自身がカラスだと気づいたのか、いつの間にか日常のある東京でカラスの視点を身につけてしまった。
深瀬昌久写真展「烏、東京篇、1981」展示風景。
RK そうだと思います。被写体としてのカラスが特別な意味を持ち、それを人やものに投影していく感じが、「烏、東京篇、1981」から一気になくなった。深瀬さんがカラスになって、カラスが撮った写真だから鴉だ、という感覚が深瀬さんにもあって、その転換点が「烏、東京篇、1981」だったのだろうと思います。
TK 今回のMACKからの復刻版に関しては、そもそもの蒼穹舎版『鴉』を手に取ることのできない人が圧倒的に多かったので、いま勢いのある出版社と手を組み、文字通り世界中の人々に『鴉』を手に取ってもらい、どんなものであったかを知ってもらうことが目標としてありました。次に目標としたいのは、本写真集に収められていない、深瀬が展示と雑誌で描いて見せたことをまとめた“もうひとつ『鴉』”を世に伝えることです。そういった意味で『鴉』計画はまだ終わっていないのです。
鴉 / RAVENS
作家|深瀬昌久(Masahisa Fukase)
仕様|スリップケース入りハードカバー
ページ|136ページ
サイズ|263 x 263 mm
出版社|MACK
発行年|2017年
purchase book
トモ・コスガ(Tomo Kosuga)
1983年生まれ。深瀬昌久アーカイブス ディレクター。フリーマガジン「VICE」日本版の編集を経て独立。現在は写真家、深瀬昌久が遺した作品を世界にあまねく普及させる活動に携わりながらも、日本写真の現在を様々な媒体に寄稿。2015年、渋谷・Diesel Art Galleryにて開催された深瀬昌久『救いようのないエゴイスト』のプロデューサー&キュレーターを務め、2017年には南仏・アルル国際写真祭にて開催された深瀬昌久の西欧初となる回顧展『L'INCURABLE ÉGOÏSTE』の共同キュレーターをサイモン・ベーカー氏と共に担う。
金子隆一(Ryuichi Kaneko)
1948年生まれ。写真評論家、写真史家、写真集コレクター。本業は僧侶。立正大学文学部卒業。元東京都写真美術館学芸員。武蔵野美術大学非常勤講師。日本写真史、特に日本の芸術写真(ピクトリアリスム)を専門とし、東京都写真美術館の企画展はもちろん、国内のさまざまな写真展を企画監修。主な著書として、日本の写真集の黄金時代をアーカイブした『日本写真集史1956-1986』(I.ヴァルタニアンと共著、赤々舎刊、2009年)などがある。